町田市街ができるまで
首都圏有数の商業都市・町田が、現在の形になるまでにどのように変化しながら発展してきたのか。
鎌倉時代から現在までを8つの年代に分け、その変遷を地図で可視化してみました
鎌倉時代|安土桃山時代〜明治初期|明治中期〜後期|大正時代〜昭和初期|昭和戦前期|高度成長期|昭和後期|平成初期〜現在
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年表
鎌倉時代
上野・信濃から鎌倉へ至る鎌倉街道上道(最も主要な鎌倉街道)沿いに町田村の宿(集落)が形成
1333年、鎌倉幕府倒幕のため上野国で挙兵した新田義貞は、町田村の宿を通過後、馬の鞍を松に掛け軍勢を休ませ(鞍掛の松)、翌日、藤沢へ一気に進軍し鎌倉幕府を滅ぼした(鎌倉の戦い)
1335年、鎌倉幕府再興のため信濃国で挙兵した北条時行は、町田村井出の沢で鎌倉将軍府の足利直義を破り(井出の沢の戦い)、鎌倉を一時的に奪還した(中先代の乱)
安土桃山時代〜明治初期
1582年、町田村の農民が秣場・相之原の原野を開拓し分村。原町田村が成立し、町田村が本町田村に改称。
町田村で開かれていた六斎市は原町田村が継承
1587年、六斎市が二の市(原町田)と七の市(本町田)に分離
1800年代前半、原町田の市が再び六斎市(二・六の市)となり、神奈川往還=八王子道沿いに開かれた原町田は市場町として発展。一方、本町田は次第に衰退
1859年、横浜港が開港すると生糸・絹織物が主要輸出品となり、神奈川往還が集散地八王子と横浜港を結ぶ浜街道に発展。原町田が中継地として繁栄
明治中期〜後期
1889年、町村制が施行され、原町田村、本町田村、森野村、南大谷村が合併し町田村が発足。
新宿〜八王子に甲武鉄道が開業。八王子と横浜が鉄道で結ばれ、浜街道が衰退
1908年、生糸輸送を目的として横浜鉄道が開業。原町田駅が開設(1910年、鉄道院借り上げ(八浜線)、1911年、海神奈川延伸)
大正時代〜昭和初期
1913年、町田村が町制施行し町田町となる
1917年、横浜鉄道が国有化され横浜線となる
1923年、関東大震災により半数近くが全半壊
1927年、小田原急行鉄道が開業。新原町田駅が開設(1929年、江ノ島線が開業し分岐駅となる)
昭和戦前期
1932年、横浜線東神奈川〜原町田間電化。原町田駅で運行系統が分断(1941年、全線電化)
1936年から市街地北側の耕地整理が始まり、碁盤目状の街路が形成
1937〜40年、「原町田西方」に陸軍関連施設が相次いで移転し、原町田が“軍都”における商業・娯楽の中心地として発展。新原町田駅を中心に市街地が急速に拡大
1937年、陸軍士官学校(相武台)への昭和天皇行幸に向け、原町田駅〜相武台に“行幸道路”が開通
1938年、大野信号所が駅に昇格し通信学校駅が開業(1940年、相模大野駅に改称)
高度成長期
1950年以降、他地域を地盤とするチェーンストアが商店街に進出
1945年、相模原の陸軍施設が米軍に接収されると、1953年頃から米兵を相手とした特殊飲食店街(青線)が出現
1954年、町田町と南村が合併し改めて町田町が発足
1958年、町田町、鶴川村、忠生村、堺村が合併し町田市が発足
1962年以降、市内各所に住宅団地が建設され人口が急増。東京の衛星都市となるも市街地の道路は逼迫
1964年、商店街(天満宮近くの十字路付近)に米軍機が墜落(町田米軍機墜落事故)
1964〜66年、住居表示を実施し中町、旭町を新設
昭和後期
1970年以降、新原町田駅周辺に商業ビルが相次いで建設
1976年、新原町田駅が町田駅に改称。小田急百貨店が開店し百貨店全盛
1980年、大規模再開発により、原町田駅が移転し町田駅に改称。町田駅前通りが開通し、商業の中心は駅前へ
1984年、町田街道がルート変更
平成初期〜現在
2000年以降、専門店(ファッションビル)が、新規開業や百貨店からの転換により増加。
旧原町田駅以東は商店街から中高層住宅街に置き換わる
2002年、原町田大通りが全通し、駅前の求心力が高まる。
以後、勝楽寺通り、森野中町大通りといった縦方向の道路が開通し、市街地は“線”から“面”へ