高見中心部(空想地図)
人口約16万人の市中心部の1万分の1詳細地図
高見市街地略史(近代まで)
近世以前
古代より朱国、朱前国与傍郡に属し、一宮・内次神社の鎮座する内次郷と称される地域でした。
中世には、高見氏が現在の中心市街地北東の山頂に高見城を築き、山麓(現在の元高見・五神谷地区)に城下集落が形成されました。これが高見の地名や街の起源とされています。
近世に入り、東国街道の裏街道として朱後街道が整備されると、街道沿いに通町、内次神社門前に宮町の2町が成立。
近世中頃には与傍郡や町居郡における人・物の集散地となり、朱後街道の宿場町、内次神社の門前町として繁栄しました。次第に町場は周辺農村に拡大し、高見は2町4村が構成する町場の総称となりました。
一帯は近橋藩および佐野口藩の領地でした。
近代前期
廃藩置県により近橋藩と佐野口藩は廃藩、それぞれ近橋県と佐野口県となりましたが、まもなくして都方県(県庁は都方郡小幡)に、さらに会内県と統合し現在の矢野県となりました。
高見には与傍郡の郡役所が置かれました。
1889年に町村制が施行され、通町、宮町、砂須村、沓方村および川根村、貝瀬村の一部が合併し与傍郡高見町が発足。それぞれ高見町の大字となりました。
近代後期
小幡と国上を結ぶ幡上鉄道が、続いて三日市(町居)とを結ぶ町居鉄道が開業(いずれも後に国有化)。
清滝電気鉄道高見線(現会内鉄道)と、まだ鉄道の通っていなかった基禰郡曽禰地域とを結ぶ計画であった高曽鉄道(後の朱北交通市岡線)も相次いで開業しました。
1936年に市制を施行し高見市が発足。それに伴い中心部の大字は町丁に再編されました(後の住居表示に伴う再々編により現在の町丁とは異なります)。